自分自身の場合
最初に自殺願望が芽生えたのは、16歳のときだったかな。
必至にイヤでイヤでしょうがない中学生活を耐え抜いて、高校生になればすべてが変わると思い込んでいたのに、思い描いていた生活と現実の生活が全然違っていたのがはじまりだった。
当時から無意識的に、学生生活は貴重で失敗できないと思っていた節があったから。
次第に、心と体のバランスを崩していった。
頻尿恐怖→パニック障害→強迫神経症と発症していき、真っ暗なトンネルのなかにいた。
しかし、それとは一転して18歳で高校卒業して、東京で心機一転のまったく新しい環境での生活は本当に楽しかった。
そして、不思議なことにめまいや頻尿、胃痛、腹痛などの身体の不快症状は消え去っていった。
18歳から26歳までは楽しかったといえる。
だから、仮に17歳で自殺していたら18歳から26歳までの楽しかった生活は経験できなかったのだ。
気付いた先人たち
自分の好きな言葉に「人間万事塞翁が馬」または「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない」という言葉がある。
訳:何が起きるかは知る由もない。知っていると思っているだけなのだ。 私たちはつい大げさに騒ぎ立て、頭の中で悪い事ばかり起きるシナリオを書きあげる。ほとんどの場合、それは間違い。落ち着いていろいろな可能性に心を開いていれば、やがてすべては良くなると信じられるようになる。
未来にどんな楽しいことがあるかは、わかりません。
何十冊と文献を読んだところ、
人はこの世に生まれてくる前に親を決め、自分の顔立ち、どんな人生を送るかある程度決めて生まれてくるらしい(宿命と呼ぶ)。
もしそうだとしたらこのままバッドエンドで終わるなんてことはありえない。
すべてはハッピーエンドのための過程であるはずなのだ。
『法華経』にも、こういったことに関する適切な話がある。
ある大金持ちに息子がいたが、居所が分からなくなってしまい、父親は20年かけて、ついに探し当てる。
しかし、息子はすっかり貧乏人根性が身についてしまっていて、心が狭く、いやしく弱くなってしまっていた。
そこで、父親は自分が彼の父であると名乗らず、20年もかけて、少しずつ、粘り強く息子を導き、心を立派なものにした後、初めて自分が父であったと明かし、全ての財産を譲り渡した。
この大金持ちの父親は仏を喩えたもので、息子は私たちを例えたものにあたる。
この話から、仏は我々を見捨てないことが感じられる。
長い年月をかけて見守っているのだ。
皮肉なことだが、不幸を味わうほど、幸せを感じられる。
自分自身の経験に例えると、
法華経に出会う=父親(仏)に見つけてもらう
教育を受ける=法華経を実践する
といった感じだ。
いずれも年月はかかっている。
すべてを投げ出しくなったり、自殺を考えている人も、どうかもう少しだけ粘ってみてほしい。
時間稼ぎでもいいから生きていれば、万物は流転し状況は少なからず変わる。
この世は諸行無常で、全てのものは変わっていくのはこの世の摂理だから。
状況は変わらなくても、自分の心が変わっていく。
年単位、月単位でも運気の流れはあるし、1日のなかでも運気に流れはある。
自分を取り巻く状況は変わらなくても、考え方は変わる可能性は大いににある。
たまたま見ていたハートネットTVで、こんな回があった。
岩崎航さんは、幼い頃から、全身の筋力が衰えていく難病・筋ジストロフィーを患い、自宅のベッドに寝たきりの状態で暮らしてる方です。
このテレビ番組を見ながら「神様なんていないのかな」と思いながら視聴していた。
本人も病状が進むにつれて、自殺を考えていたそうだ。
しかし、本人のセリフからは「あのとき自殺しなくてよかった」という言葉。
病気が治るどころか進行する一方で、このセリフは意外であった。
「人生は分からないもの」と思わせてくれた、きっかけひとつであった。
状況や環境は、たとえ変わらなくても心は変わる。
心が変われば、見ている景色はぜんぜん違うものに見えてくる。
心がすべてだとも思う。
「この世は苦である」と、仏教の教祖である釈迦はおっしゃった。
事実、この世は苦しみに満ちている。
生きていくことは、壁をぶち壊していくことの連続だ。
情報化社会なので、インターネット検索すれば、自分より状況の悪い人はすぐ見つかるだろう。
意外な芸能人もいじめに遭っていたりする。
いじめをする人も、もちろん幸せではない。
いろいろな文献を読んで、「この世は苦である」には続きがあるらしい。
ちなみに「苦」とは「自分の思い通りにならない」との解釈らしい。
あの世では基本、自分の思い通りらしい。
この世では真逆である「自分の思い通りにならない」ということを経験し楽しむことが目的らしいのだ。
この世はゲームという記事にも書いたが、なにもかも思い通りになるということは気づきもないし、なにも生まれない。
よって、いかに苦難を客観的に見て、楽しむことができるかにかかっているそうなのだ。
いかに困難を困難と捉えず楽しめるか、これが生きる極意なんだろう。
僕たちはなんだかツイテイル。この世には希望救いもある。
最後に、心に刺さったアンカフェのみくさんの言葉を載せておきます。
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