功徳とは?読み方や意味などを解説
「功徳」と書いて「くどく」と読みます。
意味としては、人々に利益(りやく)を与える素晴らしい性質のことをいいます。
また功徳を生む因となる善行をいう場合もあります。
善行の代表的なものには、唱題、折伏などがあります。
わたしたちの生命を覆う煩悩や苦悩などの悪を消滅させて、智慧や安楽などの善を生み出すこと現証を指しています。
代表的な功徳の一つとして、
『南無妙法蓮華経』と唱えることにより、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つの知覚器官が浄化され健康になることがあります。
※六根清浄(ろっこんせいじょう)といいます
なかには解決したい問題があり、10時間の唱題に励む会員の人もいます。
毎日三千遍あげると、生命力が変わり、百万遍あげると現状が変わってくるのが定説です。
法華経の行者の祈りは必ず叶う
先日、会員歴の長い創価学会の方とお話しをしてきました。
その中でも、印象深かった要点を残しておきたいと思います。
ちなみに法華経のすべては、『御書』と呼ばれている日蓮大聖人が残した著作や書状に残されており、疑問に思ったことは基本すべて分かるようになっています。
今回は、思うように祈りが叶いづらかったり、体調が安定しない原因を伺いました。
その件については、行者にならず信者のままでは、大きな祈りは叶いづらいとのことでした。
逆に、行者になれば必ず祈りは叶うと御書には記載があるとのことでした。
この2つの違いは読んで字のごとく、信じているだけの人と行動している人の違いです。
よく入会前に、入っただけではなにも変わらないけど、きちんと題目を唱えたり、折伏をしたり悩んでいる人を励ますことを行えば、現実は変わってくるということをよく言われていたことを思い出しました。
創価学会に入れば、あとはなにもしなくても悩みが解決すると思っているだけでは
まだ”信者”の段階です。
行者は、きちんと題目を行ったり仏法対話をしたり、悩んでいる人を励ます行為を行ってる人が行者です。
きちんと行動すれば、結果は変わってくるはずです。
曼荼羅は功徳の集まり
曼荼羅は御書によると、功徳の集まりで「功徳聚」と呼ばれているそうです。
※功徳聚・・・くどくじゅ
功徳は集まっているが、どう引き出すかは人それぞれとのことでした。
これも端的にいえば、自分次第ということです。
これもいい例えで話を伺ったのですが「塾の先生と生徒」みたいなものだそうです。
どれだけ教え方が上手い優秀な先生がいても、生徒が居眠りしていたら中身は入ってきません。
逆に、最高の教師に、こちらから質問したり積極的に質問したりモノにしようとすればそれだけ得るものがあるということです。
そして、曼荼羅への意志の強さがそのまま功徳として現れるそうです。
お寺の鐘を鳴らす撞木(しゅもく)のようなものです。
つまようじのように細い撞木(しゅもく)で鳴らしても音はあまり響きません。
逆に、大きい立派な撞木(しゅもく)で鳴らせばその分反響があります。
曼荼羅に向かって行う題目もこれと同じことがいえる!ということでした。
つまり、不信感を持って祈ったり、「どうせ叶わないだろーな」と思いながら唱題しても功徳は引き出せないということです。
妙法蓮華教は自身を顕す
妙法蓮華経は自身を顕してもいます。
妙・・・頭
法・・・喉
蓮・・・腹
経・・・脚
「南無」は、敬意、尊敬、崇敬をあらわす言葉なので「南無妙法蓮華経」と唱えることは絶対に「自分自身を信じる」という解釈になりますが、言葉にすることは難しく、感覚で分かっていくものだそうです。
結局は自分自身を絶対的に信じる手助け
不思議なことですが、自分自身のことは自分でも分からないものです。
そうでなければ、自分探しという言葉や「なぜあのときああいう行動をとったか自分でも分からにない」ということはないのではないでしょうか。
自分自身を信じることが難しいものですが、信じることができれば基本大概のことはできます。
真我という奥底では気づいていますが、自我が邪魔をします。
南無妙法蓮華経と唱えることは、自分自身の奥底から全知全能な真我を呼び起こす行為です。
やはり感覚的に先人たちは気付いていて、「為せば成る為さねば成らぬ何事も」「一念岩をも通す」「精神一到何事か成らざらん」「蟻の思いも天に届く」
などの言葉も残っています。
この一念を鍛え上げる手助けとなるのが、「南無妙法蓮華経」と唱える題目の力ともいえます。
今回の対話の中で疑問点が解決したので、また気持ちも新たに仏教活動をしていきたいと思います。
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